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日本人と英語について

バブル処理に失敗と英語力について

日本の国力が有ったときは日本語が障壁になり、日本が優位に立てたのだが、逆に日本が弱まると日本語などただのローカル言語になるとことある毎に言ってきた。

英語については、話せないより話せた方が良いが、それだけが重要なのでは無い。

英語力が国家の力の源泉になるのなら、植民地支配された国々の人々の方が遙かに英語力があり、それら国々の国力の方が日本を上回って当たり前になる。

歴史はそうなってはいない。

英語が影響力を持っている背景は、18世紀からの産業革命によるイギリス中心主義から始まった事が今だに影響している事による。

勿論、あらゆる部門においてイギリスの思想は競争力を持っているからそうなるのだが、その中の言語だけで国力は語れない。

最近、よく考えるのは言葉よりも、その人間が何を考えているか の方が重要だという事だ。

言葉はその考えの表現でしかなく、その考えがその人間の行動指針になるからだ。

どんなに饒舌で有っても、どんなに知識が有っても、それを役立てる方法を知らなければ、その人の内面にある知識でしかない。
知識が活かされなければ無用の長物である。

それは言葉や、言語や書物から得る知識だけが重要では無く、その人がどのように感じ、生き、表現し、たとえどのような生き方をしたとしても会得し体現する事の方が重要だと考えはじめている。
言葉はその表現の手段の一つでしかない。
しかも一人の人間は一つの生き方しか出来ないとなると、その人間の出来る事などたかが知れている。 
よってどんな人間でもその人が持っている強みを持てれば良い。
大工でも東大の教授でも有る意味同じだ。

言語は、そこにいる人々と付き合う事が出来ればそれなりに習得出来る。完璧さなど必要無い。ようは自分が何を相手に伝えたいかを相手が理解できれば何とかなるものであり、それ以上でもそれ以下でも無い。

同じ日本語を話していても、どのくらい相手に伝わっているかなど分からない。それは相手の経験値と自分の経験値が違うわけで、人間の本質は言葉ではなかなか伝わらないからだ。

2010年07月24日 登録

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